美術関係者からのコメント


美術関係者の方からコメントを頂きましたので紹介させて頂きます。
(敬称略)


「いま、日本に必要なのは、長い歴史を科学的な視点でとらえることと、地球上のすべての国と友好関係を保ち続けるということです。
表現者のみなさんは、今回の件に萎縮せず、これからも積極的な表現活動を続けて欲しいとおもいます。
私の両親は第二次世界大戦に参加し、侵略戦争に加担してしまいました。
この悲劇を繰り返さないようにするには『長い歴史を科学的な視点でとらえること』が必要なのです。
そして日常生活のなかで、あるいは作品を通じて、さまざまな社会問題・政治の問題を、少しずつでいいので話題にしていき、恫喝・脅迫・暴力・差別をあたりまえに否定できる社会にしていきましょう。」
(武蔵野美術大学 非常勤講師 原田浩)



津田さんは『表現の不自由展』の作品内容を事前に発表すると展示ができなくなるかもしれない、また弁護士や警察からも右翼団体に準備期間を与えないために内緒にした方が良いと言われたと言います。なぜ内緒にしてまで展示をしたかったのでしょうか。そして重要なことは『何を』展示したかったのか。

『戦時下の女性の人権』は迫害されるものではありません。6月の時点からそれを伝え続け、議論の場を持ち、センセーショナルさを解除して、もしそれでも『国民を貶めている』という結論を出すなら、今の日本では展示できないものとして諦めるしかありません。何がなんでも少女像を今の日本で展示すべき!と私は考えていません。内緒にしてなんとか展覧会オープニングだけでもお披露目するというやり方を見ていると、弁護士も警察も津田さんも、もしかして企画者も、少女像を人種差別の飛び道具か何かと勘違いしているような気がしてなりません。

この夏に私も参加したドイツの展覧会に日本の領事館から『不可逆的な解決をしているにもかかわらず、韓国の急進的なアーティストを含むいくつかの団体が、引き続き議論を誘発している』と抗議が来ました。あいちトリエンナーレでは、領事館の言い分(つまり日本政府の公式見解)をメタ的に考えるのではなく、彼らもまた言葉のままに聞いている対応をしているように見えます。もちろんドイツの展覧会に日本の公金は使われていません。戦時下の女性の人権について考えようとすることは、(お上から与えられる)『自由』の範囲外なのでしょうか。『自由は(お上から)許される』ものではなく、自分たちでその範囲を決めていくものです。

日本では、あれは国民を貶める政治でアートではない、みんなが嫌がっているから撤去されても仕方ない、劣った人種が事実を歪めているという声が聞こえてきます。作品は日本国民の民族感情を害する『退廃芸術』とでも言うのでしょうか。『安全性のため』や『確認がとれるまで』は、権力が用いる初歩的な方便です。また、あいちトリエンナーレの展示作品について菅官房長官は『把握している』と発言をしましたが、テロ行為に対して日本政府から公式な見解は出ていません。なぜ『公金を使っている』展覧会に何もしないのでしょうか。まるで『何もしない』をしているかのようです。

もう一度、日本政府は『何を』見ているのか、企画者側は『何を』見せようとしているのかを考えて、展覧会再開に向けた動きをして欲しいと思います。」
(ユミソン)



「戦争の記憶は、それを継承する人の経験によって、大きくわかれます。さまざまな人が、記憶の保持者として、あるいは『他者』の経験に寄り添い、痛みを共有しようとの思いから、過去に多くの造形を試みました。それは、今回撤去された『表現の不自由展』の出品作に限りません。また、出品作にも、『歴史』(制作の契機、参照、受容/否定)がありますよね。ややこしくても、歴史に立ち戻って議論を深めることが必要、有効ではないでしょうか。戦争と記憶の分断の歴史を乗り越えたいと希望する人たちに、考える上での根拠、記憶や経験と、それにまつわるさまざまな感情と造形との複雑な関係性を提示することが求められているように思います。  」
(池田忍)




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